私の教養人

さきのアンケートには「平成日本の」という条件があったが、いまの日本に、教養人というのはどれだけいるのか気になる。あまり多くはないと思う。上に名前のある人のほかは、村上陽一郎さんとか。中沢新一さんとか。ちょっと古くなると、斎藤茂太さん、梅原猛さん、河合隼雄さんくらい。前の教養学部長だった浅島誠先生もすばらしい教養人だと思う。
集合で考えれば、[教養人]⊂[文化人]⊂[民衆]という感じになるのだろうか。とにかく、教養人というのは、なるのに大変な努力と修練が必要な気がする。それでは、教養人と人格者との対応はどうか。これはこれで、いろいろな場合がありそうである。
「平成日本」のという条件をやや甘くして、「近代化以後の日本」のというふうにすると、けっこうたくさんの名前をあげることができる。
福沢諭吉新渡戸稲造岡倉天心内村鑑三鈴木大拙夏目漱石森鴎外、などなど。当時、日本の先頭に立って活躍した人たちの人間性の深さには本当にあこがれる。

教養人とは誰のことか

12日のイベントのアンケートに、「あなたにとって平成日本の教養人は誰ですか?」というものがあった。私は、迷わず立花隆だと答えた。
会場に来ていた東大生の集計結果は以下のようであった。ベスト3までをのせる。
爆笑問題
養老孟司
立花隆北野武筑紫哲也
1位、爆笑問題。さすが東大生は、ものごとをよくわかっているな、と思った。
2位、3位を見ても順当な結果ではないかと思う。

素養としての芸術

レオナルド・ダ・ヴィンチの『ウィトゥルウィウス的人間』もそうだが、ある芸術家や芸術作品を知っていて、しかもそれについての解釈を与えることができる、というのは、文化的人間としてのひとつの大事な素養だと感じた。会話の中では、ピカソの話も出てきた。ある画家の名前を挙げて、主要作品が言える。ある絵画作品を上げて、誰が描いたかがいえる。ある画家について、表現がどのような芸術的運動のっているかをいえる。これらはどうでもいいことなのかもしれないが、ちょっとした会話に盛り込み、表現を豊かにすることができる素養として役に立つ。いま、人間へのアクセス権というようなものをすこし考えている。

プロフェッショナルとアマチュア

権威主義・学閥主義への抵抗についても議論があった。大学という教育機関は、学者・研究者をかかえこんでいて、社会が健全な思想をもつことを阻んでいるという指摘である。哲学的課題にしたって、哲学者、思想家だけが考えるには余りあるし、もったいない。生活と学問が乖離してしまっているというわけである。私はこの問題に大きく同意する。プロフェッショナル、専門的見地からみた分析は必要かもしれないが、専門家や権威と呼ばれる人たちと同じことを、なぜ自由に考えることができないのか。なぜ口を大にして議論することができないか。プロフェッショナルの学者ではない、アマチュア的な物好きたちへの思想的風土がしっかりしていないのである。
このような具合に、2時間ほどの対談がおこなわれた。やっぱり爆笑問題はいろんな意味で面白いと思った。

ウィトゥルウィウス的人間

レオナルド・ダ・ヴィンチの『ウィトゥルウィウス的人間』のパネルが登場した場面が、今回のイベントのハイライトだった。小林先生が構図の説明をして、爆笑問題の二人が聞き入っている様子がとても印象深かった。『ウィトゥルウィウス的人間』に描かれている人間は、世界と接触している。腕を伸ばしている先には、同世代の仲間がいる。平面に描かれた図の背後には、何枚もの層があって(実際には1枚だが)、かつての時代を生きた先人たちがいる。そして、彼の足元には、人が立つことができるしっかりとした居場所がある。小林先生は、自分の居場所をみつけること、そして自分がいる居場所を感じることが私の教養なのだといった。私にとって、非常に鮮烈な教養観であった。私もこんなことを言ってみたいと思うほどだった。
先の構図の説明で、小林先生は、人間の上にくるものはもろもろの自称を超越したところにあるべき知、神秘であるといってみせた。これを聴いて、私以外の人たちはどのように受け取ったかは定かではない。なにやら怪しげなことをいうものだと感じた人もいたかもしれない。しかし私は、この発言が持つ意味のすごさが理解できるし、あのような場で発言できたという小林先生の勇気に敬服したい。
私は最近になって、さまざまな現象を追求していった末には、なにかを越えることができると考えるようになった。越えたところにあるのは、神秘やスピリチュアリティとよばれるものである。これについてはまだ明確に言い表せないでいるが、小林先生の発言をちょうど今回聞くことができたので、なんとなく心が安らぐ気がした。

教育についてのいくつかの考察

しかし、教育についていうならば、太田はひとつの側面しか見ていないということになる。さきほど、知識の伝達について言及したが、人から教わることの意味は、あと二つ考えられる。二つ目は、獲得した知識から世界を見ることである。そして、三つ目は、先生の語りを見ることである。
二つ目に付いていうと、先生が教える知識というのは、必然的に先生の中で消化され、多少なりとも新たに解釈が付加された知識である。それを聞くことで、新たな視点や思考の形式がひとまとまりに吹き込んでくる。私は、教育の大きな意義のひとつは、ここにあると思う。人間がたった一人で独自になにかを考えようとしても、考えられる範囲には限界がある。その限界を破るのは、ほかの人間が考えていることを一度取り込んでみることである。取り込むというのは、単に鵜呑みすることでは決してない。太田が指摘しているのはまさにここである。受験勉強は詰め込み型こそが至上の方策であるといわれる。これはある意味事実である。受験勉強の問題はしたがって、正答のみを求めるという思考の硬直化を招く。知識というのは、本来のところ、取り込んでからが肝心であるはずだ。取り込んだ知識をよく吟味し、批判をおこない、採用すべきか棄却すべきかを見分ける。この作業をおこなわなければ教育を受ける意味がない。そうして獲得した知識をいろいろな事柄にあてはめ、世界を見るのである。
そして三つ目の事柄だが、これは小林先生がいっていたことである。私もよく共感するところである。授業という限られた時間を利用して、教師がなにを語り、なにを伝えることに努めるのか、どのようなしぐさを見せるのか、ということを注意深くみていく。どの場面でどのような言葉がもちいられ、そこからなにが喚起されようとしているのか。言外の意味はあるのか。果たして言いたいことを言い尽くしているのか。それを看て取っていくのである。言ってみれば、教師の表現形態としての授業を楽しむのである。授業を通して、教師の人格や行動規範を学ぶことが教育の意義ではないか。ここで確認しておかなければならないことは、このような授業の「鑑賞」が可能となるのは、教師のなかに教育に対する情熱が宿っている場合に限る。情熱をもって伝えることをしない教師は、教育の意味を根本からわかっていない。

東大≠教養

議論は「東大イコール教養」ではないというところから始まった。東大生は勉強の秀才と呼ばれる人たちだが、その「勉強」というのは人から教えられたこと、つまり受動的姿勢に疑問を感じる、と太田は言った。太田は、学校で人から教わる「学問」には、ろくなことがない。こういうことが必要だ、ということを見抜いて自分で調べることこそが「勉強」の意義であるといった。私は、たしかに自分で調べることは、大事であると思う。しかし、太田の言うように、執拗なまでに現在の学校教育、すなわち先生から教えてもらう教育を否定することはよくない。先生から教えてもらうということの意味は、少なくとも三つあるだろう。ひとつは、知識の伝達。太田が指摘しているのは、学校で学ぶ知識が役に立たないということである。それはたしかにうなずける。なぜなら、学校で学ぶのは、学問の<入り口>に相当する、表層的・抽出的知識でしかないからだ。こういうことを学ぶべきである、という教育は受けていてつまらないし、何かの役に立つとも思えない。太田はしきりに、実践的知識を身につけるための勉強の必要性を言っていた。その例で興味深かったのは、陶芸家が自分が焼いた作品を見て、「こんなんじゃだめだ」といいながら、地面にたたきつけるイメージである。実用性のある焼き物をせっかくつくったのに、なぜ破壊して役に立たなくしてしまうのか。この説明で、太田は、学問における現実からの乖離を語った。聞いていてなるほどと思った。