東大≠教養

議論は「東大イコール教養」ではないというところから始まった。東大生は勉強の秀才と呼ばれる人たちだが、その「勉強」というのは人から教えられたこと、つまり受動的姿勢に疑問を感じる、と太田は言った。太田は、学校で人から教わる「学問」には、ろくなことがない。こういうことが必要だ、ということを見抜いて自分で調べることこそが「勉強」の意義であるといった。私は、たしかに自分で調べることは、大事であると思う。しかし、太田の言うように、執拗なまでに現在の学校教育、すなわち先生から教えてもらう教育を否定することはよくない。先生から教えてもらうということの意味は、少なくとも三つあるだろう。ひとつは、知識の伝達。太田が指摘しているのは、学校で学ぶ知識が役に立たないということである。それはたしかにうなずける。なぜなら、学校で学ぶのは、学問の<入り口>に相当する、表層的・抽出的知識でしかないからだ。こういうことを学ぶべきである、という教育は受けていてつまらないし、何かの役に立つとも思えない。太田はしきりに、実践的知識を身につけるための勉強の必要性を言っていた。その例で興味深かったのは、陶芸家が自分が焼いた作品を見て、「こんなんじゃだめだ」といいながら、地面にたたきつけるイメージである。実用性のある焼き物をせっかくつくったのに、なぜ破壊して役に立たなくしてしまうのか。この説明で、太田は、学問における現実からの乖離を語った。聞いていてなるほどと思った。