教育についてのいくつかの考察

しかし、教育についていうならば、太田はひとつの側面しか見ていないということになる。さきほど、知識の伝達について言及したが、人から教わることの意味は、あと二つ考えられる。二つ目は、獲得した知識から世界を見ることである。そして、三つ目は、先生の語りを見ることである。
二つ目に付いていうと、先生が教える知識というのは、必然的に先生の中で消化され、多少なりとも新たに解釈が付加された知識である。それを聞くことで、新たな視点や思考の形式がひとまとまりに吹き込んでくる。私は、教育の大きな意義のひとつは、ここにあると思う。人間がたった一人で独自になにかを考えようとしても、考えられる範囲には限界がある。その限界を破るのは、ほかの人間が考えていることを一度取り込んでみることである。取り込むというのは、単に鵜呑みすることでは決してない。太田が指摘しているのはまさにここである。受験勉強は詰め込み型こそが至上の方策であるといわれる。これはある意味事実である。受験勉強の問題はしたがって、正答のみを求めるという思考の硬直化を招く。知識というのは、本来のところ、取り込んでからが肝心であるはずだ。取り込んだ知識をよく吟味し、批判をおこない、採用すべきか棄却すべきかを見分ける。この作業をおこなわなければ教育を受ける意味がない。そうして獲得した知識をいろいろな事柄にあてはめ、世界を見るのである。
そして三つ目の事柄だが、これは小林先生がいっていたことである。私もよく共感するところである。授業という限られた時間を利用して、教師がなにを語り、なにを伝えることに努めるのか、どのようなしぐさを見せるのか、ということを注意深くみていく。どの場面でどのような言葉がもちいられ、そこからなにが喚起されようとしているのか。言外の意味はあるのか。果たして言いたいことを言い尽くしているのか。それを看て取っていくのである。言ってみれば、教師の表現形態としての授業を楽しむのである。授業を通して、教師の人格や行動規範を学ぶことが教育の意義ではないか。ここで確認しておかなければならないことは、このような授業の「鑑賞」が可能となるのは、教師のなかに教育に対する情熱が宿っている場合に限る。情熱をもって伝えることをしない教師は、教育の意味を根本からわかっていない。