INNOCENCEに見る近未来科学

5月28日午後13時30分より、五月祭特別対談企画「INNOCENCEに見る近未来科学」が開催された。場所は本郷キャンパスの工学部5号館であった。対談にお招きした方は、作家の瀬名秀明さんとProduction I.Gで脚本をされている櫻井圭記さんのお二人であった。瀬名さんが30代後半、桜井さんが20代後半ということで、私にとっては親しみやすい対談だった。だけれど、話された内容は、それ相応に難しいものだった。例を挙げれば、ロボットと人間のあいだに横たわっている根源的な違いは何か。その境界を決めるのは何か。どこまでが主観を持った自分であるのか。知性の本質は何か。等々。
会場にいる人のどれくらいが話についていけているのかちょっと気になるくらいであった。私は対談を聴いていて、こういう話で延々としゃべることができる人たちも世の中に入るのだな、と感心してしまった。なんというか、私自身、きっとそうなんだろうな、という感じは持つのだが、実際のところどうなのかわからない。そんなじれったさを終始持ち続けながら話していく。この感覚が私にはちょっと堪えられそうにないと思った。それでも対談は機知に富み、洞察にあふれ、けっこう突っ込んだ話もありで、好感を抱いた。対談をされたお二人がとにかく楽しんでいるのが伝わってきた。一番興奮していたのは、間違いなく瀬名さんと櫻井さんだったろう。
対談を聴いて考えなければならないのは、というか考えても仕方ないのだが、それは、結局のところゴーストはどこに宿るのかということに尽きると思う。それは霊魂、ドイツ語では"Geist"である。これは、自然科学の話題をはるかに超えてしまっている。哲学で扱うのも困難なのではないか。むしろ神秘主義の枠に収まっている。
そもそも、この問題は、主観をもった人間同士が経験を共有できる範囲にはない。したがって、なにでなにをかたればいいのかわからない。ひょっとすると対談されたお二人のように小説や映画を創作して、人に読んでもらったり見てもらったりすることが、ひとつの有効な方法なのかもしれない。自身が延々とかたる形式をとらず、ある物語のなかで、あらかじめ設定した個人に語らせる形式である。映画原作の「攻殻機動隊」の用語を借りるとすれば、「ゴーストプリント」だということができるかもしれない。このようにすることで、作品にアクセスするための一貫した手続きが成立する。小説であれば、本を読めばいいのだし、映画であれば、映画館にいって鑑賞すればよいのである。こうして、表現されたもの、つまり「作品」が人々によって「経験」される。すなわち経験が汎化され、その後に共有化されるのである。作品が出来上がってしまえば、その表現者でさえも、作品を経験することが可能となる。いたって平等なしくみである。
映画のなかで、過去に蓄積された大量のテキストを外部記憶装置から検索・引用する話があった。これにより、本当に言いたいことがうまく伝わりやすくなるかもしれない。しかし、それは気のあった仲間とするような普段の会話を、ややインテリ風に膨らめるためのツールに過ぎないように思えてしまう。実際、映画「INNOCENCE」を見ていて、二人の登場人物(バトーとトグサ)のやりとりのなかに、どこか退屈しのぎ的な印象を受けてしまった。彼らは現実に対して、冷徹なまでに無関心なのである。まるで、本当の関心はこんなところにはないと言いたげな…。
今回のお二人の対談もまさに映画と同じように受け取れてしまう。となれば瀬名さんがバトー的で櫻井さんがトグサ的である。瀬名さんは現場を直に渡り歩いている戦闘員で、ご自身もかなりサイボーグ化している。一方、櫻井さんは、現場からやや距離を置いていて、まだ人間らしさを手放すのにためらっていて、サイボーグ化に踏み切れないでいる。このような印象を受けた。だが本当のところ、映画で出てきたテキストは押井守監督がむかし読んだ本からの引用なのだそうだ。文脈、これは人が生まれ、言葉を話すようになってからの文脈ともいえるが、それこそが人がある人生の一場面で、その時思い浮かぶ事柄や口にする事柄、文字に書き記す事柄を決めているのではないか。質疑応答のとき、記憶の重要性があげられたが、記憶と共に忘れてはならない大切なものは、学習であり、忘却であり、想起であるように思う。
とまあ、こんな具合で五月祭特別対談企画が無事終了した。どんな感想をもったかはひとそれぞれだと思った。